象と空

字余り

曇天の鈍行電車冬の匂い
俳句はどうして五七五なのか?
いつもアタマのどこかで考えている。
五七五を無視したり
ちょっと字余りにしたりするけれど
原点はどこからきているのかを
考えておかないと
まったくデタラメな議論になる。

そんなわけで
時々自由律、
時々字余り、字足らず
時々短歌に近い俳句
などなどをつくってはいる。

五七五について研究している人がいて
それを読んだこともあるけれど
ワタシは学者ではないから
実作者としてそれを考えていきたいのだ。

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最近、詩的リズムをつけるために
韻に凝っている。
頭韻、脚韻・・
なんでも韻を踏もうと考えてしまう。

木瓜の花日向ぼっこで惚けている

これは極端に韻を求めて中身を失った作品。
これでいいのかなあ?

俳句は嘘を書いていい。
そんな風に普通に思っていたのだけれど
どうも違うらしい・・・?
見たもの、聞いたもの
できるだけ真実をと
考えている人が多い。
そこにびっくりして
フィクッションの句を描くことにした。

養父待つ冬の広場に星ひとつ

満天の冬の広場よ養父来る


ワタシの父はワタシが二十歳を超えて死んだ。
当然、養父は必要なかった。
でも、養父がいるとどういう気分か
想像しながら上の句ができた。

それぞれの句の思いは違う、はずだ。

地名読み込み

ちょっと納得の句ができた。
地名入り俳句。
多くの人が知っていること、
イメージが同じであること・・・など
地名を俳句に使うにはそれなりの
ルールがあると思う。
歴史的な地名は使いやすいけれど
現代の地名は困難が多い。
そんなことを考えていたら
この俳句、自信がなくなってきた。

暖冬の天神橋筋三代目

言葉足らず

坪内稔典は俳句を「片言」と規定しているが
ワタシは最近、「言葉足らず」だと考える。
同じようないみだけれど
俳句は「言葉足らず」でいい!と
規定してしまうと
気楽に作れるし、気楽に読んでもらえる・・・。

やっぱり、どちらも同じ?

蒼空も泣く空も冬の空である

俳句かなと思いつつ。
でも、詩だとは言い切れる。
俳句の詩性がいま、また難しい。