象と空

「と」~取り合わせで決まり!

「と」~取り合わせで決まり!

  ピエールの黒いカバンよかたつむり

リンゴの絵を描くとき、横に何を置くか。皿を置いたり、花を置いたり。
人によっては楽器を置いたりするかもしれない。
こんな風に主役のリンゴを引き立てるためにちょっとだけアタマをつかう。

普段の生活でも、サラダを皿に盛るとき、最後に赤が欲しいとプチトマトをのせたりする。

組み合わせの仕方でまるっきりイメージが変わってくる。
この組み合わせのことを俳句では取り合わせという。
「取り合わせ」こそ俳句の俳句らしさであり、俳句表現の基本。

昔から俗な取り合わせの代表として「梅に鶯」がある。
誰でもが思いつくので魅力的ではないる。
新しい組み合わせを発見すること。
それが俳句を輝かせてくれる。

掲出の句は
「黒いカバン」と「かたつむり」の取り合わせが、
風景としては当たり前なのだが、俳句になったとき不思議な世界をつくる。

  渚にて金沢のこと菊のこと
  
  この橋は父がつくりし蝉しぐれ 

若くして亡くなった俳人田中裕明の作品。
上の句は渚と金沢と菊というかなり意外な取り合わせで、
読者がびっくりしてしまう。
下の句は割にゆるい取り合わせ。
父の姿が目に浮かんでくる。

俳句にとって取り合わせはきわめて重要だ。

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へ~ 下手な鉄砲も

しばらくお休みしていた
「俳句いろはに」。
「へ」から再開です。
もう一度気合いを入れて。
(「へ」はどうも気合いが入らない?)

へ~ 下手な鉄砲も

じっくりつくる人がいます。
とにかくどんどんつくる人がいます。
ワタシは後者です。
俳句は挨拶という側面があります。
人に会ったとき、何かを見たとき
いろんな出会いを五七五にしたい。
それでとにかくたくさんつくります。

ビジネスもそうですが
100のアイデアを考えようと日頃から言っています。
ひとつの商品を売るにしても
100のアイデアを考え、
実際に紙に書いてみる。
40や50はすぐ思いつくのですが
それから先が大変です。
もうやけになってひねり出します。
実はそれがいいのですね。
とんでもない発想ができることがあります。

俳句もそうです。
とりあえず出会ったらいっぱいつくって紙に書きましょう。
中には輝きそうな原石があります。
そこからじっくり推敲をします。
これはワタシ流ではありますが
いろんなクリエイターにこの話はしています。
下手な鉄砲も数撃ちや当たる
なんと言われようが構わない。
当たればいいのです!


  入道雲下手な鉄砲水鉄砲

ほ~方言をつかえばいいのに

蝉の声がてらがてらに生きている  
油照り浪花のおこしおこしやす  
口癖は「ぼちぼちでんな」遠花火
大阪弁の俳句をたくさんつくった。
大阪人ではないけれど、大阪が大好きだから。
京都から大阪に居を移して感じたことは大阪の「自由さ」。
(京都は形式の街で、それはそれで魅力。)
何でもありで、親しみやすい街だと思う。
俳句もどこか庶民的、生活的になる。

「俳句やってまんねん」というと、
「風流ですな」と返ってくる。
俳句は「わび」とか「さび」といった、
ちょっとすました世界と思われがち。
でも、実は「滑稽」も俳句らしい。
貴族のものであった和歌、短歌とは出自が違うから、
俳句は大いにくだけたい。
(最近は俳句より短歌の方がずっとくだけている場合がある。)

方言が「滑稽」というのではないが、
方言で俳句を描く人が少ないのは事実。
たとえば、生活感を大事にするには方言はとても効果的。
そんな大阪弁生活俳句を紹介しよう。作者は小寺勇。
  
  悪いこと言わへん風邪なら寝るこっちゃ
  路地はえぇで夕すずみんなで共有し
  蚊に覚めてほべたでぼちんめくら打ち

生き生きとしていて、潔いと思うがいかが?
小寺の名誉のために?大阪弁でない作品も挙げておく。

  生きるとは食べることにて秋高し
  仲良しのまま子まま母赤のまんま

主旨がずれてしまった。
方言、いま私たちが日常で使っている言葉。
どんどん俳句の中に入れ込む。
それが俳句を生き生きさせるコツである。

に~日常語でいきましょう


冬支度穴には未来ありますか

義援金今朝は寒いからまけといて

春を待つイオン発生器抱えてる

掲出の俳句の共通項は私たちが日常使っている言葉をそのまま俳句にしているところ。俳句独特の言葉や文語的な難しい言葉は入っていない。
いちばん最初の句は「未来ありますか」と普通に問いかけ。
真ん中の句は「まけといて」と関西弁になっている。
最後の句は「抱えてる」で、本来なら「抱えている」。
日常語なのでどの句も親しみやすさが出てきている。
別の項で話題にするつもりだが、カタカナ、英語なども自由に使っていい。俳句はもともと庶民の文学。和歌、短歌のように雅語に拘ることもない。(最近の短歌はかなり日常的なものが増えましたが)。
ただ、日常語が連なると、事象の報告になってしまう危険がある。詩性をちょっとアタマに置いてみたい。
日常語を使う名人は池田澄子さん。
  じゃんけんで負けて蛍に生まれたの     
  
  青い薔薇あげましょ絶望はご自由に
            

2つとも私の愛唱句。「生まれたの」という口語体。
「絶望」という詩語に遠いような言葉をさらりと口語体にして詩にしている。こんな風に詠たわれると、人生の深刻さも吹っ飛んで元気が出てくる。                  
余談だが、池田澄子さんには
前へススメ前へススミテ還ラザル

こんな非常にシニカルな作品もある。
戦争中の小学生国語の「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」を踏んでいて、
池田さんの気持ちが伝わってくる。

は~発見!自由自在に、柔軟に


春の雪ピアニストの指細い

日頃見慣れている風景やカタチがふとしたことで、いつもと違うものに見えたりすることがある。
たとえば、ピアニストの「指」。
いつもなら、「指」に目がいくことはないのだけれど、
何かの拍子で「えっ」と初めて見るような驚きに包まれる。
妙なる調べに酔いしれて、それに気づいたり、
窓の外の春の雪に誘発されて、それを発見したり。
緊張感の中の心の小さな動きが発見に結びつくのだ。

水色の軍艦眠る森の秋

俳句は「発見の詩」といっても過言ではない。
物ごとの新しい面を見つけること。
それは目の前のものに気づくことだけではなく、
アタマの中で新しい風景をつくってしまうような発見もある。
「水色の軍艦」なんて実際はない。
でも、アタマの中でそれをイメージする発見。
これも楽しいことだ。

  古池や蛙飛び込む水の音
おなじみの芭蕉の句も「発見」の句。
「蛙が水に飛び込む」というきわめて当たり前のことが作品になっている。
平安時代から詩歌の世界では蛙は「鳴く」ものとして扱われてきた。
ところが芭蕉は「飛ぶ蛙」を発見したのだ。そこがエライ。

このように「発見」にもいろいろな種類がある。
いずれにしても新しい目、視点でとらえること。
それが句の中心になっている。
正岡子規を引っ張り出すこともないけれど、
発見のない句を「月並み」と評して忌み、
新しい俳句づくりを目指した。
もちろん、発見には自由な、柔らかいアタマが必要といえる。